1月16日、厚生労働省は労働政策審議会労働条件分科会に「今後の労働時間法制等の在り方」に関する報告書の骨子案を提示した。労働基準法等の改正に向けた骨子案であり、一昨年9月から始まった公労使による議論は大詰めを迎えた。骨子案には(1)働き過ぎ防止のための法制度の整備、(2)フレックスタイム制の見直し、(3)裁量労働制の見直し、(4)高度プロフェッショナル労働制の創設――などがセットで盛り込まれている。アドバンスニュースに緊急寄稿した大阪大学大学院法学研究科の小嶌典明教授によれば、人事労務の現場に最も大きな影響を与える問題は、骨子案が随所で強調する健康確保の前提にある「労働時間の把握」の義務化にあるという。
以下、話はある研究所の未来風景から始まる。
20XX年X月X日のある研究所
今日も、所内のパソコンは午後10時になると自動的にシャットダウンした。翌日の午前5時まではパソコンが使えない。
土日や祝日(所定休日)は、研究所の入口が閉鎖され、所内に入ることさえ禁止される。これに合わせて、研究所から貸与された自宅のパソコンも、土日や祝日には起動できないようにセッティングされている。
平日(所定労働日)には、在宅勤務も認められているが、午後10時から翌日の午前5時までは、研究所のデータベースはもとより、パソコンそのものが使用できないシステムになっている。
以前は、研究所に何日も寝泊まりして、仕事を続ける強者もいた。だが、2015年に健康確保のため「労働時間の把握」が法令で義務づけられて以降、そうした研究の虫は完全にその姿を消した。
「労働時間の把握」は、あくまで健康確保のために行うものであり、割増賃金の支払いとは関係がない。たしかに、そのようなタテマエはあった。しかし、研究所の所員が適用を受ける裁量労働制は、正確には「労働時間のみなし」を認めるものにすぎず、時間外や深夜、休日に勤務した場合には、割増賃金の支払いが必要になる。
研究所では、曜日と時間帯を問わず、自由に勤務することを所員に対して認めてきたという経緯もあって、勤務する曜日や時間帯を選択する自由がこのように所員にある以上、深夜や休日に勤務したというだけで割増賃金を支払うことには問題がある(所員もこれを公平とは思わない)として、そのための予算も組まれていなかった。
また、所員については、1日8時間勤務したものとみなすものとされていたことから、平日の勤務に加え、土曜か日曜に「出勤」すると、それだけで1週の法定労働時間である40時間を超えてしまい、このことが「労働時間の把握」により顕在化し、研究所としても見過ごすことができなくなる、という問題もあった。
そこで、この際、深夜や休日の勤務をできないようにしてしまえ、という話になったのである。しかし、その結果、優秀な所員は、時間規制のない海外の研究所に移り、さほど優秀とはいえない所員だけが研究所に残る、という非常事態に研究所は直面した。
ただ、研究所に残った所員も、その多くは研究への意欲を次第に失っていった。研究の中断を頻繁に強制される環境のもとでは、いったん低下した意欲を再び元のレベルに戻すだけでも、相当の時間とエネルギーが必要になる。こうしたことを繰り返すうちに、研究意欲もどこかに行ってしまった。そんな所員が多かったのである。
さらに、時間にとらわれることなく、自由に研究することのできる環境が失われたことによる心理的ストレスに耐えかねて、精神面でダメージを受けた所員も少なからずいた。健康確保の措置を講じたために、かえって健康を害する。悪い冗談としか思えないような現実が、そこにはあった。
厚労省の骨子案――責務から義務への転換
2001年4月6日に厚労省が労働基準局長名で発出した、世にいう4・6通達「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」(基発第339号)は、次のようにいう。
使用者は、労働時間を適正に管理するため、労働者の労働日ごとの始業・終業時刻を確認し、これを記録すること。
2 始業・終業時刻の確認及び記録の原則的な方法
使用者が始業・終業時刻を確認し、記録する方法としては、原則として次のいずれかの方法によること。
ア 使用者が、自ら現認することにより確認し、記録すること。
イ タイムカード、ICカード等の客観的な記録を基礎として確認し、記録すること。
その狙いは、いわゆる不払い残業の防止にあり、同時に発出された解釈例規では、そこにいう「タイムカード、ICカード等の客観的な記録」に「パソコン入力」によるものも含まれることが明らかにされている。
ただ、通達で「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置」として「始業・終業時刻の確認及び記録」を定めたとはいっても、それはいずれにせよ、使用者の責務にとどまるものであって、管理監督者のほか、みなし労働時間制の適用を受ける者については、その適用が除外されていた(ただし、これらの者についても「健康確保を図る必要があることから、使用者において適正な労働時間管理を行う責務がある」とはされていた)ことにも留意する必要がある。
これに対して、今年1月16日に開催された労働政策審議会労働条件分科会に同省が提出した資料「今後の労働時間法制等の在り方について(報告書骨子案)」は、「働き過ぎ防止のための法制度の整備等」の一環として、「労働時間の客観的な把握」を使用者に求めるなかで、次のように述べるものとなっている。
過重労働による脳・心臓疾患等の発症を防止するため労働安全衛生法に規定されている医師による面接指導制度に関し、管理監督者を含む、すべての労働者を対象として、労働時間の把握について、客観的な方法その他適切な方法によらなければならない旨を省令に規定することが適当。
4・6通達に定める責務が、厚生労働省令に規定する義務に格上げされる。このように考えると、わかりやすい。 (つづく)
小嶌 典明氏(こじま・のりあき)1952年、大阪市生まれ。75年に神戸大学法学部卒業。大阪大学大学院法学研究科教授。労働法専攻。小渕内閣から第1次安倍内閣まで、規制改革委員会の参与などとして雇用労働法制の改革に従事するかたわら、法人化の前後を通じて計8年間、国立大学における人事労務の現場で実務に携わる。最近の主な著作は『職場の法律は小説より奇なり』(講談社)のほか、『労働市場改革のミッション』(東洋経済新報社)、『国立大学法人と労働法』(ジアース教育新社)、『労働法の「常識」は現場の「非常識」――程良い規制を求めて』(中央経済社)など。文部科学教育通信に「続 国立大学法人と労働法」を、週刊労働新聞に「提言 これからの雇用・労働法制」をそれぞれ連載中。