Q賃上げが求められるご時世ですが、先行き不透明の中でなかなか経営判断が難しいのが現実です。客観的にどのような考え方をすべきでしょうか。
A 首相の年頭会見で今年の重要課題として賃上げが挙げられたこともあり、今春の賃上げをめぐる話題が飛び交っています。積極的に賃上げを目指す経営者がいる一方で、必ずしも景況が良くない中で判断に迷ったり、人件費の増加に耐えうる経営状況にないと考える企業もあります。そもそも賃上げは経営の判断裁量で自律的に決めるべき事柄であり、ことさらに外部から口出しすべきことでないのはいうまでもありませんが、経営者の悩みには共通の前提があるのもまた事実だと思います。
この場合の賃上げは基本給の水準が一律で上がるベースアップが一般的ですが、わが国の労働法では厳しい解雇規制(労働契約法16条)と不利益変更の法理(同10条)が置かれているため、解雇規制が緩やかな欧米や中国などと比べると、賃上げにはより綿密な将来に渡っての経営計画が求められるといえます。いったん引き上げた賃金は将来経営が悪化しても容易に引き下げることはできず、解雇をめぐるハードルも極めて高いため、大企業はともかく中小零細企業で短期の利益のもとでの賃上げに慎重になるのは、平均的な経営者のマインドだといえるかもしれません。
また、社会保険料や所得税の仕組みから、少々の金額を賃上げしても手取りに反映しないこともあるため、賃上げを実感できない労働者も少なくありません。給与計算の実務に携わっていると、実際に数千円の昇給があっても逆転現象が起こって手取りが減るケースもしばしば目にします。さらに所得税の103万円、社会保険の130万円という壁があるため、パートタイマーや契約社員が昇給の結果この金額を超えてしまうと、控除から外れてしまうために多くの場合、手取りはかなり目減りしてしまうことになります。共働き世帯が主流となり、社会保険の適用拡大によってかつてのようなサラリーマン夫+主婦パート妻という典型例はかなり減ってきていますが、少なくとも意識面では2つの壁は今なお健在だといえます。
このような前提の中で中小零細企業が持続的に賃上げを行っていくには、自社の経営状態や周囲の景況といった条件のみにとどまらない長期的な戦略や大局観が必要だと思われますが、当面は基本給のベースアップのみに限定しない弾力的な昇給や労働者個別の実績成果の評価に基づく要素との連携、月例賃金のみにとどまらない賞与や臨時給与なども加味した年収ベースでの昇給制度の実施などを並行・複合していくことが現実的かもしれません。103万円と130万円の壁については、ダブルインカム時代の本格化や今後の最低賃金の引き上げによって緩やかに歴史的役割を終えると思いますが、業種業態や経営方針などによるとはいえ、企業の自主努力によって低賃金のパートタイマーの戦力に安易に頼らない人材活用を目指していくべきだといえるでしょう。
中長期的には、解雇の金銭解決や解雇規制の部分見直し、ジョブ型雇用やドラスティックな人事評価の試行、「男性は仕事、女性は家事・育児」という昭和的な性別分業論を底流に置く社会保障制度や税制の仕組みの抜本的なリニューアルが求められると思いますが、できる限りの努力と工夫によって当面の賃上げに向けて取り組みつつ、そうした将来を目指す機運づくりを意識していく時代だといえるのかもしれません。
蛇足ですが、マクロ経済学ではNAIRU(インフレ率を上昇させない失業率non-increasing inflation rate of unemployment)という考え方があり、理論としてはある水準まで失業率が下がるほど全体としての賃上げが実現されるといわれています。国全体の財政・金融政策として、積極財政か緊縮財政か、金融緩和か金融引き締めかという議論が盛んな時期ですが、2%程度が理想だとされるNAIRUをめぐる指標が今後どのように推移していくかにも注視したいところです。
(小岩 広宣/社会保険労務士法人ナデック 代表社員)