白内障に罹っていた左目を、このほど手術した。右目だけの生活を1年半ほど送ってきたが、活字の扱いを仕事とする身にはかなり不便だった。現代ではさほど珍しくもない、日帰りの手術だったが、新しいレンズの入った左目は使い古した右目よりはるかに明るく見え、手術後の保護メガネをはずした両眼でみる世界は、文字通りまぶしかった。
30年ほど前、作家の曽野綾子さんが白内障の手術を受け、失明の危機を免れる「奇跡」に恵まれたことを、体験記などで知っていた。曽野さんの時はまだ“実験”段階だったが、その後に多くの手術例を重ね、今では健康保険の対象にもなる「標準治療」になっている。カトリック信者の曽野さんは「神からの贈り物」と受け止めたそうだが、当時の状況を思えばその通りだったのだろう。
それに比べると、私は治療技術の進歩の恩恵をフルに受けられた。「治った」という事実もそうだが、それ以上に、手術までの「本当に治るのか」「このまま見えなくなったら」といった心配や悩みがなかったことも、曽野さんの時代との大きな違いではないかと思う。こんな時代にめぐり合わせた私は幸運だった。
しかし、悲しいかな、その後がいけない。「見える」ことが当たり前になると、今度は「膝が痛い」「腸のポリープが増えた」と別な“病気”が気になってしまうのだ。「神からの贈り物」への感謝もそこそこに、次々と出て来る凡人の欲深さに、我ながらあきれてしまう。昔読んだ曽野さんの体験記を思い返し、「感謝」の意味を反すうしている。(俊)