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2013年2月 7日

木曜日のつぶやき58・鈍感さの代償

ビー・スタイル ヒトラボ編集長 川上敬太郎氏

 体罰に悩んだ10代の少年が選んだ道は、自らの命を絶つことだった。

c130207.jpg 自分ばかりが責められ殴打されたことに、とことん追い詰められたのだろう。自殺した大阪・桜宮高校の生徒はバスケットボール部のキャプテンだったという。一部では、他の部員への見せしめのように30~40発もの平手打ちを受けたと報じられた。

 少年を追い詰めた顧問に対し、世間から非難の声が集まったが、一方で同校バスケットボール部OBの1人はマスコミの取材に対し、顧問の人柄を慕うコメントを発した。

 これが私には妙に引っかかった。

 柔道全日本女子の監督が体罰問題で辞任したケースもそうだ。女子選手15人から訴えられるという前代未聞の出来事に非難の声が上がる一方、柔道関係者からはその監督の人格や技能について評価する声が相次いだ。

 桜宮高校の顧問や女子柔道監督の体罰行為は、決して許されるものではない。行き過ぎた体罰は教育ではなく暴力だ。しかし、一部で彼らを評価する声も聞かれることから、悪人が意識的に暴力を振るったというのとは趣が違うように感じる。

 昔から体罰は日常生活の至るところで行われてきた。子供時代、学校で忘れ物をして先生に頬をつねられたり、悪さをしてゲンコツされたりした経験のある人は少なくないのではないか。

 また、親から子供への体罰もある。例えば以下のような場面だ。

 子供が突然道路に飛び出す。そこへ車がやってきて急ブレーキをかける。なんとか無傷で済んだのだが、子供はあっけらかんとしている。そんな時は気をつけなさいと、優しく諭したりはしない。平手打ちしたりゲンコツしたりして、いかに危険な行為だったかを体で分からせる。

 その時、子供は泣くが、ひっぱたく親の心も痛い。

 体罰とはそういうものなのだと思う。もし体罰を与える側に心の痛みを伴わないのだとしたら、それは暴力でしかない。言葉による叱責であったとしても同じ。言われる側の心の痛みを感じないならば、それは言葉の暴力となる。

 人材サービス現場においても、心の痛みを伴っているか否かは大切なバロメーターだ。心が麻痺した瞬間、あっという間に人をモノのように扱う悪徳事業者へと転落する。心の純度を保てない者に、人材サービスに携わる資格はない。

 桜宮高校の顧問や女子柔道監督としては、暴力を振るっている自覚はなかったのかもしれない。しかし、もしそうであるならば、それこそが心の痛みに鈍感だった証拠だと言える。

 心の痛みへの鈍感さの代償は、あまりにも大きい。

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