ビー・スタイル ヒトラボ編集長 川上敬太郎氏
民主党の小沢一郎元党首が無罪と報じられた。驚きの声が各地で聞こえ、私も驚いたひとりに違いなかったのだが、その理由は少し違っていた。
私は小沢氏が有罪になると考えていた。
ある元政治家と酒を飲みながら、「小沢さんは、有罪になるだろう。でも無罪になる可能性もなくはないよな」などとわかったふうな口を利いた時、その人物は半ば言葉をさえぎるように言い放った。
「あんなもん、無罪になるに決まっとる」
頭の中にいくつもの?マークがついた。何を根拠にこの人は言い切るのか。あれぐらいの政治家になると、いちいち金の出入りなど見ていないものだという。そんなものを気にしていたら、国や世界を導く仕事はできないということらしい。
らしい、と言うのは、そこそこ酔いが回っていてはっきりと覚えていないからだが、そんな趣旨だった。はっきり覚えているのは、「無罪に決まっとる」という言葉。
果たして、結果は無罪となった。私は、予言が当たったことに心底驚いた。
当時、その人以外で私の周りにいる人はみな、有罪になると語っていた。私もそう思っていた。小沢氏が本当に白か黒かはわからない。しかしマスコミの論調がそうだったように、少なくとも私の中では、世間はみな黒だと思っているだろうとイメージしていた。
四面楚歌の状況下で法廷に立つ気分はどのようなものだったろう。その時の小沢氏の心中を察するに、孤独以外の何物でもなかったに違いない。その孤独感に思いを馳せたとき、ふとTBSで放映していた「運命の人」というドラマを思い出した。あそこで法廷に立っていた本木雅弘氏演じる弓成記者は、やはり孤独であったろう、と。
いま、人材サービス業界でひそかに話題となっている法廷闘争がある。元行政官僚がかつて所属した組織を訴えた1件だ。背景にある細かないきさつは把握していないが、そこにも新たな孤独を感じずにはいられない。それは、訴える側にも訴えられる側にも当てはまる。
誤解を恐れずに言うと、争いとは正義と正義のぶつかり合いである。特殊なケースを除き、自分が間違っていると思って戦う人間などいない。それゆえ、争いそのものは必ずしも悪いものだとは思えない。争いという過程を経て、新たな正しい認識へと統合されることもある。
しかし腑に落ちないことがある。その争いの根本的な原因を作った政治家の姿が見えないことだ。政治主導をうたった政治家の指示によって行政は動いた。行政官僚にとって、指示に忠実であることが正義だ。たとえそれが、間違った指示であったとしても。
自らの正義に従って争う者の孤独を思うと、いたたまれない気持ちになる。